1883年-1956年(明治16-昭和31)
本名 高村光太郎(たかむら みつたろう)
後年、自ら高村光太郎(たかむら こうたろう)と改める。

木彫家高村光雲(1852-1934)の長男。東京下谷出身。弟は鋳金家の豊周(とよちか)。東京美術学校(現東京美術大学)彫刻科卒業。在学中の1900年(明治33)与謝野鉄幹の新詩社に入る。また、「明星」に短歌を発表。

1906(明治39)から彫刻修行のため4年間、米・英・仏に留学。パリではボードレール・ヴェルレーヌらの詩、セザンヌ・ゴッホ・ロダンらの彫刻に感銘を受ける。

09年帰国。ヨーロッパで人間性の根源に目覚めた光太郎は、雑誌「スバル」に載せた「緑色の太陽」をはじめ辛口の美術批評を発表するが、因習を重んじる日本美術界からは受け入れられなかった。

光太郎は北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、長田秀雄らの「パンの会」に参加してその鬱念を発散。酒びたりの頽廃的な生活に沈みこんでいく。

11年、「青鞜」の表紙を書いていた長沼智恵子を知り、14年結婚。同年詩集「道程」を発表。口語自由詩の達成点として、高く評価される。

妻智恵子との生活によって頽廃生活から救われるが、やがて智恵子は精神分裂症を煩い、死に至る。智恵子への愛情と、その悲劇的な別れを詩集「智恵子抄」(1941)にあらわす。ことに「レモン哀歌」は今日に至るまで愛唱されている

41年太平洋戦争の勃発とともに、「大いなる日に」(1942)など積極的な戦意高揚詩を作るようになる。

戦後は自責の念からか、疎開先の岩手県太田村山口(現花巻市太田)の山小屋で7年間の自炊生活を送る。この時期の作品に連詩「暗愚小伝」、それを納めた詩集「典型」(1950)がある。

52年東京に帰り、翌年十和田湖畔に裸婦立像「みちのく」を完成。これが最後の作品となった。
肺結核が悪化し、56年(昭和31年)四月二日死去。73歳。

高村光太郎の墓は、東京都豊島区駒込の染井霊園にある。花巻市太田には高村光太郎記念館がある。

主な作品(詩集)

  • 道程(大正3 自費出版)
  • 猛獣篇(死後出版された)
  • 智恵子抄(昭和16)
  • をぢさんの詩(昭和18)
  • 記録(昭和19)
  • 典型(昭和25)
  • 智恵子抄その後(昭和25)
有名な詩
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