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無料解説音声「高村光太郎と智恵子」

全10回の無料解説音声です。高村光太郎と智恵子の歩みを詩の朗読をまじえて解説します。

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画像はミカリンコ様が作成してくださいました。
MICA JOSHITA PHOTOGRAPHY(サイト)
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「レモン哀歌」 高村光太郎
そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
私の手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関ははそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう

LEMON AIKA Takamura Koutarou
sonnanimo anata wa lemon o matteita
kanashiku shiroku akarui shi no toko de
watashi no te kara totta hitotsu no lemon o
anata no kirei na ha ga gariri to kanda
topaazuiro no kouki ga tatsu
sono suuteki no ten no mono naru lemon no shiru wa
patto anata no ishiki o seijyou ni shita
anata no aoku sunda me ga kasuka ni warau
watashi no te o nigiru anata no chikara no kenkousa yo
anata no nodo ni arashi wa aruga
kouiu inochi no setogiwani
chieko wa motono chieko to nari
syougai no ai o issyun ni katamuketa
sorekara hitotoki mukashi santen de shitayouna shinkokyuu o hitotsu shite
anata no kikan wa sorenari tomatta
syashin no mae ni sashita sakura no hanakage ni
suzushiku hikaru lemon o kyou mo okou

解説

光太郎と智恵子の出会いは1911年(明治44年)、
知人の紹介によってでした。

光太郎のアトリエ新築祝いに、智恵子は
グロキシニアの花を持って訪ねてきました。

やがて光太郎のもとに、
智恵子からの熱烈なラブレターが届くようになります。

1913年(大正3年)光太郎と智恵子は上高地旅行を通じてその親密さを増し、やがて婚約ということになります。

彫刻と詩の光太郎、油絵の智恵子。芸術家夫婦ですね。
当初はとても楽しい結婚生活だったのです。

しかし、智恵子はもともと体が弱かった。病弱でした。
それに加えて長年にわたる貧乏生活。
さらに実家の破産、一家離散という不幸が重なります。
智恵子は精神を蝕まれていきます。

1931(昭和6年)、智恵子は光太郎の留守中にアダリンという薬を
大量に飲んで自殺をはかります。

なんとか一命は取りとめたものの、精神状態は悪くなる一方でした。

気晴らしに行った東北旅行も効果は無く、症状はさらに悪化していきます。

1935(昭和10年)、品川のゼームス坂病院に入院。
1938年(昭和13年)10月5日、粟粒性肺結核で息を引き取りました。

入院中、智恵子が多数の切り絵を創作したのも、有名な話です。

「レモン哀歌」は、妻智恵子の死の瞬間を描いた作品。
涙無しでは読めません。

智恵子の死の翌年の1939年(昭和14年)、雑誌「新女苑」に発表。
41年(昭和16年)第二詩集「智恵子抄」に収められました。

詩集『智恵子抄』は高村光太郎の第二詩集。1941年(昭和16年)8月、龍星閣刊。『人に』から『荒涼たる帰宅』までの詩29篇、短歌6首、『智恵子の半生』『九十九里浜の初夏』など散文3篇を含みます。

光太郎と智恵子の出会い、愛に溢れた生活、そして智恵子の死が描かれています。

『道程』と重複する詩もあります。『荒涼たる帰宅』を除き、作品は制作年代順に配列されています。

「その最後の日、死ぬ数時間前に私が持つて行つたサンキストのレモンの一顆(つぶ?)を手にした彼女の喜も亦この一筋につながるものであつたらう。彼女はそのレモンに歯を立てて、すがしい香りと汁液とに身も心も洗はれてゐるやうに見えた。」

「私の持参したレモンの香りで洗はれた彼女はそれから数時間のうちに極めて静かに此の世を去つた。昭和十三年十月五日の夜であつた。」(以上「智恵子の半生」より)

「トパアズいろの香気」「青く澄んだ眼」など、あまりに美化されていて悲痛さはむしろ抑えられています。少なくとも「梅酒」や「千鳥と遊ぶ智恵子」に見られる、むき出しの悲しみはありません。そこが賛否両論分かれるようです。

光太郎としてはこれくらいオブラートに包まなければ智恵子の死(しかもその瞬間)という場面を 描けなかったのではないでしょうか。

光太郎の内面を語る心理描写が一切無いにも関わらず、刻々と移り変わる気持ちの変化が伝わってくるのがスゴイと思います。

『智恵子抄』が発表された1941年(昭和16年)の12月8日、真珠湾攻撃によって日本は太平洋戦争に突入します。

戦争中、光太郎は智恵子を喪った悲しみを振りはらうように戦争詩の製作にのめりんでいきます。光太郎はひたすら戦気高揚詩を書き続け、一切智恵子のことを書かなくなりました。

ふたたび光太郎の詩に智恵子が登場するのは戦後の作品「報告-智恵子に」まで待たなければなりませんでした。

光太郎の死後、草野心平が編集した『智恵子抄』が新潮文庫に
納められます。初版とは構成が異なります。

朗読は、智恵子の生前の姿を高村光太郎が回想しながらシミジミ歌ってる感じを意識しました。何度めかの再録です。

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